広島県福山市中心部の約8割を焼き、355人が亡くなった福山空襲から8日で80年を迎えた。空襲を生きのび、いまも体験を語り継ぐ人たちがいる。
「街の何もかもが燃えていた。地獄絵図とはこのことかと思った」。福山市霞国民学校(現・市立霞小)6年生だった近藤茂久さん(91)は市内の集まりで講演し、空襲のあった1945年8月8日の夜を振り返った。
古野上町の自宅で空襲警報を聞き、両親や妹らと防空壕(ごう)に駆け込んだ。やがて壕の中が熱く、息苦しくなっていく。
突然、入り口から焼夷(しょうい)弾が飛び込んできた。顔にやけどを負いながら外に出て、家族と必死に逃げた。子を呼ぶ親の叫びと、親を呼ぶ子の泣き声がいまも耳を離れない。
市人権平和資料館によると、その2日前に米軍の原爆投下で広島市が壊滅したことを受け、福山市内では警防団が「爆弾の光を見たら昼夜を問わず遮蔽(しゃへい)物の中に入るように」と指導していた。
指示を忠実に守り、防空壕から脱出しようとせずに、焼死や窒息死した人が多くいたという。
午後10時25分ごろから約1時間の空襲で355人が亡くなり、約1万戸が焼失。被災者は約4万7千人にのぼった。
近藤さんの家も全焼した。焼け跡で言葉も無く立ち尽くす両親の背中が、忘れられない。
10年ほど前から体験を語り続ける近藤さんは体力に衰えもあり、今年が最後かも知れないと感じている。「これからはみなさんが次の世代に伝えてください」と話を締めくくった。
「日本は勝つ」信じていた
記者の取材に体験を語ってくれた人もいる。
福山南国民学校(現・市立南小)の5年生だった内海恵美子さん(91)は南町の自宅にいた。いつもならすぐ鳴りやむ空襲警報がやまないのをいぶかしんでいると、ズドン、ズドンと地響きがした。
外に出ると、焼夷弾が落とされた向かいの家が炎上していた。市街地はすでに火の海で、普段は建物に隠れて見えない福山城の天守が見えた。
近くの田んぼに逃れた。上空を旋回する米軍の爆撃機B29の腹から焼夷弾が落ち、空中で分裂して地上へ降り注ぐのが見えた。家族は無事だったが、自宅は全焼。知人宅に身を寄せるまでの数日間、田んぼのあぜ道や神社の境内で寝泊まりした。
同級生の一人は炎に追われ、防火水槽の中で死んでいた。それまで大人の言うことを疑わずに「日本は勝つ」と信じていたが、目が覚めた気がした。「苦しかったでしょうね。ほんの少し何かが違っていたら、犠牲になったのは私だったかもしれない」
あれから80年。世界情勢が緊迫するにつれて、戦争を知らない世代の一部から核武装や徴兵制の復活など「勇ましい」言葉が聞こえてくる。
「心のどこかで、戦争が起きても自分だけはなんとかなると思っているんじゃないか。どうにもならないよ。戦争は」